【自民党の暗黒史】自民党はこうして政権を失った

政治・社会

みなさん、こんにちは。

2023年11月に自民党の政治資金パーティーの裏金問題がマスコミによって報道されて以降、国民の岸田首相・自民党への批判は強まるばかりです。

2024年1月に通常国会が始まり、野党は岸田首相や裏金問題に関わった国会議員への責任追及を強め、岸田首相は防戦一方。

岸田内閣の支持率は2024年8月で約20%と、政権維持において危険水域とよばれる水準に達していました。

そのような中、2024年8月14日、岸田首相は裏金問題の責任をとるとして、次の自民党総裁選に出馬しないことを表明し、内閣総理大臣を辞任する決断を下しました。

そして、自民党総裁選は2024年9月12日告示、27日投開票と決定

この岸田首相の不出馬表明を受け、石破茂元幹事長や、小林鷹之前経済安保担当大臣、茂木敏充幹事長ら9人の議員が出馬し、過去に類を見ない乱立状態に。

だれが次期自民党総裁、つまりは内閣総理大臣(首相)になるのかに注目ですが、いずれにせよ、次期首相はある決断に迫られます

それは、「衆議院の解散」です

義務ではありませんが、前回の衆議院議員総選挙から約3年が経過しています。

また、自民党への逆風がすさまじい中なので、新首相が政権運営を円滑に進めるためには総選挙で勝利して国民の信任を得なければなりません

早ければ、10月中に解散、11月に総選挙をおこなうという憶測も

いずれにせよ、新首相誕生後、比較的早い時期に総選挙がおこなわれることは間違いないでしょう

さて、先ほど「新首相が政権運営を円滑に進めるためには総選挙で勝利して国民の信任を得なければならない」と述べましたが、逆に信任を得られず総選挙で敗北する可能性もあります

それは自民党ひいては公明党という政権与党が敗北し、「政権交代がおこる」ことを意味するのです。

1955年に自民党が結党されて以降、自民党が政権を失うことになった総選挙は2回あります。

そこで今回は、この2回の総選挙の様子や政権交代につながった背景についてお伝えしていきます

みなさんが総選挙で投票するときの参考にしてくださいね!

1993年の衆議院議員総選挙

1993年の衆議院議員総選挙は、自民党が結党以来初めて政権を失うことになった選挙です。

いわゆる「55年体制」が終焉を迎えた瞬間でもありました。

この歴史的な選挙に突入した背景や結果、選挙後の情勢について見ていきましょう!

選挙に至った背景

1976年のロッキード事件や1988年のリクルート事件によって政治家が逮捕されるなど、国民の「政治とカネ」をめぐる不信感は募るばかりでした。

そして1992年、東京佐川急便の社長から自民党の金丸信前副総裁に、選挙の際に5億円もの献金が提供されていたことが判明

佐川急便の社長は逮捕、さらに現金が新潟県知事にも渡っていることが分かり、起訴される事態となりました。

一方の金丸前副総裁は、罰金20万円の略式命令のみ。

しかし金丸副総裁に対して政治責任を求める声が大きくなり、最終的に議員辞職となりました。

この「政治とカネ」をめぐる自民党に対し、国民の目は非常に厳しいものに。

政治資金の規制や選挙区制度の改正など、いわゆる「政治改革」を求める声が高まりました

当時の宮澤喜一首相は政治改革断行を約束したものの、自民党内の意見をまとめられず、次の国会に先送りすることに。

これに対し野党が反発し、衆議院で宮沢内閣に対して内閣不信任決議案を提出

野党の賛成はもちろんのこと、小沢一郎氏や羽田孜氏ら自民党内からも造反者が続出して賛成票を投じました

この異例の造反劇により宮沢内閣不信任決議案は可決

なお、内閣不信任決議が可決されると、内閣が10日以内に衆議院を解散しない場合、内閣は総辞職する規定になっています。

よって宮沢内閣は衆議院を解散し、総選挙で国民の信を問うことを決断

宮沢内閣不信任決議に賛成票を投じた自民党議員らが離党したばかりではなく、武村正義氏ら反対票を投じた議員の中からも離党者がでる事態に。

そして、小沢一郎氏と羽田孜氏は「新生党」、武村正義氏は「新党さきがけ」、細川護熙氏は「日本新党」といったように反自民党を掲げた新党が次々と結成され、「新党ブーム」が巻き起こり、選挙戦に突入していくことになりました

総選挙の結果

1993年7月18日(日)に投開票となり、以下のような結果となりました。

政党名獲得議席数(定数551)
自由民主党223
日本社会党70
新生党55
公明党51
日本新党35
民社党15
新党さきがけ13
社会民主連合4
日本共産党15
無所属30

政党単位だけで見れば、自民党が223議席と他政党を圧倒し、衆議院第1党を維持していることがうかがえます。

しかし、定数551議席に対して223議席ということは過半数の議席を保持していないことになり、さらに他政党は反自民を掲げて選挙戦を戦っているため、単独で政権を維持することが不可能になった瞬間でした!

細川護熙政権誕生~非自民・非共産8党連立政権

出典|毎日新聞

総選挙が終わり、その後の連立交渉の結果、国民的人気が高かった日本新党代表の細川護熙氏が第79代内閣総理大臣に任命されました。

この内閣は、自民党と共産党以外の8党派による連立内閣となり、自民党は野党へと下野したのでした(55年体制の崩壊)

細川首相は前述の通り、当初は国民的人気が高く、約70%の内閣支持率を記録!

しかし、イデオロギーの異なる8党を1つにまとめ上げるのは無理に等しい状態でした。

そのような中、細川首相は1994年2月に突如、消費税を廃止して、福祉目的のために税率7%の国民福祉税を導入する構想を表明

これを機に、細川首相への求心力が低下し、1994年4月に退陣することになりました。

その後に首相に就任した羽田孜氏も約2カ月で退陣。

そして自民党は日本社会党、新党さきがけと連立政権を組むことに合意し、社会党委員長の村山富市氏を内閣総理大臣に担ぎ上げて政権与党に復帰することに成功

その村山首相も、1996年1月に突如退陣表明をし、その後は自民党総裁の橋本龍太郎氏が内閣総理大臣に就任し、名実とともに自民党政権が復活しました

2009年の衆議院議員総選挙

2009年の衆議院議員総選挙は、自民党が2度目の野党下野を経験した選挙です。

総選挙前、野党第1党であった民主党への「政権交代」が強く叫ばれていた時期でもあり、この言葉は、2009年の「新語・流行語大賞」の年間大賞を受賞するほどに!

ここでは、民主党による政権交代を実現させた背景や結果、選挙後の情勢について見ていきましょう!

選挙に至った背景

2005年8月8日、小泉純一郎首相が改革の本丸と位置付けていた郵政民営化関連法案が自民党議員造反もあり参議院で否決されて廃案となりました。

自民党内でもこの法案に反対する意見が多く、衆議院での採決の際も造反が相次ぎ、かろうじてこの法案を通過させた事情がありました。

小泉首相は参議院で否決された後、衆議院の解散を決断!

「郵政民営化が、本当に必要ないのか。賛成か反対かはっきりと国民に問いたい」と会見で述べていたのが印象的でした。

さらに、総選挙では「郵政民営化に賛成する候補者しか(自民党は)公認しない」とし、造反議員の選挙区には対立候補、いわゆる「刺客」を送り込む状態に。

総選挙前、自民党の情勢は厳しいと考えられていた中、総選挙中の小泉首相による演説に聴衆は熱狂しました。

総選挙が終わってみれば、定数480議席に対して自民党は296議席を獲得し、連立パートナーの公明党の31議席を加えると与党で327議席となり圧勝!

これは衆議院の定数である3分の2を超える数字でした。

郵政民営化関連法案が再び国会に提出されて仮に参議院で否決されたとしても、「法律案は、衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした場合に、衆議院において出席議員の3分の2以上の多数で再び可決すれば法律となる。」という憲法の規定上、法案成立は決定的

そして最終的にこの法案は再び国会に提出され、衆議院はもちろん、参議院でも可決されて成立となったのでした。

自民党総裁としての任期が切れる2006年9月、小泉内閣は総辞職し、5年5ヶ月にもおよぶ小泉政権は幕を閉じたのでした。

小泉首相の後を受けて自民党総裁・内閣総理大臣に就任したのは、安倍晋三氏でした。

小泉政権時、拉致問題で注目を浴び、自民党幹事長や内閣官房長官といった要職を務めあげてきました。

「戦後生まれ初の総理」として期待値は高く、「美しい国、日本」を創ることをテーマに(第1次)安倍政権はスタート。

しかしその後、佐田玄一郎行政改革担当大臣に架空事務所費計上問題が発覚し、佐田大臣は辞任

さらに松岡利勝農林水産大臣にも事務所費問題や光熱費問題などカネをめぐる問題が発覚し、松岡大臣が自殺する事態になりました

その後も閣僚による疑惑・不祥事が相次ぎ、2007年7月の参議院選挙では自民党・公明党の両党合わせて過半数を下回る結果となり大敗

この結果、国会は衆議院では与党が議席の過半数を、参議院では野党が議席の過半数を保持する「ねじれ国会」と呼ばれる状態になりました。

安倍首相は8月に内閣改造と自民党役員人事をおこないますが、その後も閣僚の不祥事が発覚。

そして安倍首相の健康問題もあり、2007年9月に退陣となりました。

安倍首相の後に自民党総裁・内閣総理大臣に就任したのは、福田康夫氏でした。

福田首相は就任当初から、ねじれ国会の影響もあり政権運営に苦慮。

そのような中、2007年11月、自民党と民主党による「大連立構想」が明るみに

福田首相は民主党の小沢一郎代表と会談をおこない、民主党の政策の一部を呑むことを条件に合意に至ったとされていますが、民主党内の反発もあり頓挫することになりました。

民主党はより一層、自民党への対決姿勢を強め、「政権交代」を掲げて着々と総選挙に向けた準備を進めていきます

この動きに、連立与党の公明党では「福田首相では総選挙を戦えない」という警戒感が強まり、福田首相を退陣に追い込む姿勢をちらつかせたことが福田首相を追い詰めることになります。

そして、2008年9月、福田首相は退陣を表明。

小泉首相後、安倍・福田両首相が約1年で退陣するという、政治的信頼性が低下する事態になりました。

福田首相退陣後の2008年9月、自民党幹事長だった麻生太郎氏が自民党総裁・内閣総理大臣に就任しました。

麻生首相が就任したときには前回の総選挙から3年もの月日が経過。

衆議院の解散・総選挙に踏み切れなかった福田首相に代わり、解散・総選挙を断行することが求められていました。

麻生首相も文藝春秋に寄せた手記で以下のように述べています。

国会の冒頭、堂々と私とわが自民党の政策を小沢代表にぶつけ、その賛否をただしたうえで国民に信を問おうと思う。

つまり、麻生首相は就任後、早々に衆議院の解散を目論んでいたことがうかがえるのです。

しかしながら、麻生首相の就任直後の2008年10月、リーマンショックによる世界金融危機が発生

東京株式市場の株価が急落するなど、当然ながら日本にもその影響は及びました。

麻生首相はこの金融危機に対応するため、衆議院の解散を当面延期することに。

この解散先送りに対して、麻生内閣の支持率が急落していくことになり、12月には不支持が約60%になりました。

その後も、麻生内閣における不祥事が連発していきます。

イタリア・ローマで開かれていた7か国財務相・中央銀行総裁会記会議記者会見の場で中川昭一財務大臣が朦朧状態で会見に臨み、辞任する事態に発展

また、日本郵政社長の人事問題において、麻生首相は「郵政民営化に賛成ではなかった」という趣旨の発言をしました。

麻生首相は小泉政権時に郵政を所管する総務大臣だったため、このような発言は、2005年の郵政解散による民意(郵政民営化賛成の民意)が反映された麻生内閣にとって、民意に反する動きだと捉えられるようになったのです。

この日本郵政社長の人事問題においては、所管する鳩山邦夫総務大臣を更迭するなど、麻生内閣は混迷の極みに!

そして、民主党代表が小沢一郎氏から鳩山由紀夫氏になったこともあり、麻生首相の支持率が20%を割り込み、政権運営における危険水域に突入していきます。

さらには、東京都議選などの地方の大型選挙でも軒並み自民党が敗北するなどして、麻生首相の求心力は著しく低下。

ついに自民党内で麻生首相の退陣を公然と求める動きが活発化していき、分裂含みの状態になってしまいました。

そして、2009年7月17日、麻生首相は各党に21日に衆議院を解散する旨を伝え、その通告通り、7月21日に衆議院は解散され、総選挙へ突入していくことになるのです。

総選挙の結果

2009年8月30日(日)に投開票となり、以下のような結果となりました。

政党名獲得議席数(定数551)
自由民主党119
公明党21
民主党308
社会民主党7
みんなの党5
国民新党3
新党日本1
新党大地1
日本共産党9
無所属6

自民党はこの総選挙で119議席しか獲得できず、前回2005年の総選挙で獲得した296議席から大幅に議席を減らしました。

公明党の21議席と合わせて140議席と、前回よりも200議席近く減らしたことになります。

自民党は敗北したわけですが、1993年のときと異なるのは、第1党を維持できなかったこと

そして政権交代を掲げて選挙戦を戦った民主党は308議席を獲得して歴史的大勝をおさめることに成功

ついに民主党による政権交代が実現した瞬間でした

鳩山由紀夫政権誕生~民主党・社会民主党・国民新党連立政権

出典|政府広報オンライン

民主党の総選挙における歴史的大勝により、2009年9月16日に民主党代表の鳩山由紀夫氏が第93代内閣総理大臣に就任しました

総選挙前に、民主党・社会民主党・国民新党の3党間で「衆議院選挙に当たっての共通政策」を発表していたこともあり、民主党の単独政権ではなく、この3党による連立内閣となりました。

鳩山首相は行政刷新会議や国家戦略室を設け、「脱官僚」「政治主導」を進めていくことになります。

また、「2位じゃだめなんですか」で有名な事業仕分けもおこなうことに。

メディアでも度々取り上げられて政治が刷新されたかのような印象があり、鳩山内閣の支持率は約70%と、好スタートを切ることに成功しました。

しかし、流れが変わったのは鳩山首相と民主党の小沢幹事長による「政治とカネ」の問題が出てきたこと、そして普天間基地移設問題による混迷です。

特に普天間基地移設問題においては、鳩山首相が「最低でも(沖縄)県外」と声高に主張していたのにもかかわらず、移設先が見つからないといった状況に。

最終的に、日米両政府間で自民党政権時に決まっていた名護市辺野古への移設合意となったのです。

当然ながら県外移設を期待していた沖縄県民はこれに反発。

鳩山内閣の支持率は急落し、2010年6月に退陣となりました。

鳩山首相の後は、菅直人氏が民主党代表・内閣総理大臣に就任

しかし、その菅首相も消費税増税問題で批判を浴び、2010年の参議院議員選挙で敗北し、与党が過半数を割り込む「ねじれ国会」状態になります

菅首相への求心力が低下していく中で、2011年3月11日、東日本大震災が発生します。

この震災や福島第一原子力発電所の事故への対応の遅れや不十分さを批判され、党内や閣内から退陣論が出始めます

そして、2011年9月、菅首相は退陣することになったのです。

菅首相の後は、野田佳彦氏が民主党代表・内閣総理大臣に就任します。

この野田内閣にとって「税と社会保障の一体改革」が最重要課題と言えるものでした。

しかしながら、この税と社会保障の一体改革の関連法案を成立させるためには極めて困難な状態でした。

それは、ねじれ国会だったからです。

法案を成立させるためには野党である自民党と公明党の協力が必要不可欠に

紆余曲折がありながらも、この法案を成立させることと引き換えに衆議院の解散を約束することで、自民・公明両党と合意します。

そのときに出た発言が「近いうちに(解散する)」なのです。

最終的にこの法案は可決・成立するのですが、今度はこの「近いうちに」をめぐって与野党が対立します。

そのような中、2012年9月に自民党では安倍晋三氏が再び総裁に就任

そして2012年11月14日、野田首相と安倍総裁との間でおこなわれた党首討論で、議員定数の削減をめぐって野田首相より以下の発言がありました。

国民の皆様に消費税を引き上げるという御負担をお願いしている以上、定数削減をする道筋をつくらなければなりません。我々は、自分たちが出している法案に御賛同をいただきたい。諦めずにそれは粘り強く主張してまいります。

 でも、ここで何も結果が出ないというわけにはいかないと思っているんです。そのためにも、ぜひ協議をしていただき、これについても、これはお尻を決めなかったら決まりません。この御決断をいただくならば、私は今週末の16日に解散をしてもいいと思っております。ぜひ国民の前に約束してください。

これは議員定数削減を次の通常国会で必ずやることを条件に、衆議院を解散することを約束したものです。

この発言通りに野田首相は11月16日に衆議院を解散し、総選挙へ突入していくことになります。

そして総選挙の結果、自民党は294議席、公明党は31議席を獲得することに。

これに対して民主党はわずか57議席にとどまり、歴史的な大敗を喫することになりました。

野田首相は退陣し、自民党総裁の安倍晋三氏が第96代内閣総理大臣に就任し、自民党は政権に返り咲くことになりました

民主党政権はわずか3年あまりと短命に終わりました。

これは、普天間基地移設問題に代表されるように、2009年の総選挙時の公約を果たせなかったことが大きな要因と考えられます。

民主党への政権交代における期待値が民主党の政権担当能力をはるかに超えたものであったため、その反動で公約を果たせていない民主党に対する国民の落胆ぶりが大きかったのだろうと思います。

まとめ

いかがだったでしょうか。

自民党が政権を失う背景には、やはり「政治とカネ」の問題に代表されるように、政権党の不祥事が引き金になっているのは間違いありませんね

しかし、自民党が野党に下野したとしても、短期間で政権に復帰しているのも事実です。

それは、自民党に代わって政権を握った政党による政策遂行能力や調整能力が乏しいことはもちろん、自民党政権の不祥事を批判して政権交代をしたにもかかわらず、その政権党でも同様の不祥事が起きていることなんです

報道で出ない限り、我々有権者が政治家の不祥事を事前に知ることはできません。

有権者ができることは、「政治に関心を持ち、政治を監視する」ことではないでしょうか。

つまり、何かあれば選挙によって「政権交代はいつでも起こる」という緊張感を常に政治家に抱かせること。

「政治をバカにすると政治にバカにされる」

私たちはこれを肝に銘じて、国民主権を行使する選挙に臨みたいですね!

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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