ヨーロッパサッカーの祭典、「UEFA EURO 2024」が終わりました。
サッカー好き、それもヨーロッパサッカーに魅了されている人にとっては、寝不足の日々が続いたと思います。
さて、結果はスペインが優勝!
優勝回数が最多の4度目であり、決勝前日に17歳になったばかりのヤマル選手などの若手の活躍がすばらしかったですね。
一方、残念だったのが、前回のEURO王者のイタリア。
無残にもラウンド16でスイスに2-0と敗戦。
長年、イタリアサッカーを応援している私にとっては、ショッキングなできごとでした。
実際、スイス戦はAMEBAで観戦しましたが、スイスに支配される時間が長く、イタリアがボールを保持しても、前線へ押し上げる推進力も打開策もなく手詰まり感が満載で、見ていてつまらないと感じました。
そもそもイタリアは前回のEUROでは優勝しているものの、2006年のワールドカップドイツ大会で4度目の優勝を果たして以降、低迷期を迎えているのです。
2010年の南アフリカ大会と2014年のブラジル大会はグループステージ敗退、2018年のロシア大会、2022年のカタール大会では、ヨーロッパ予選で敗退し本大会に出場できないという状況でした。
そのイタリアサッカーの特徴といえば、カテナチオ!
多くの選手が自陣に引いて守るという堅実な守備戦術で、カウンターにより前線の数人だけで電光石火のごとく点を取るという、いわば堅守速攻型の戦法です。
そして、この堅守速攻型の戦法における前線に「ファンタジスタ」とよばれる選手がいました。
ファンタジスタとは、サッカーのポジションの名前ではなく、パスやシュート、ドリブルなどにおいて誰もが創造しないような驚くべきプレーをし、一瞬の閃きでチームを勝利に導くことのできる選手に与えられる称号です!
前線の数人だけで得点を奪うというこの戦術においては、ファンタジスタの閃きが重要だったのです。
近年のサッカーは戦術やフィジカルを重視したものであり、特に守備時に前線からのプレスは必須となっています。
そのため「守備をしない」と揶揄されるファンタジスタタイプの選手にとっては、居場所がない状況になっているのが現実なのです。
しかし、私が感じた今回のEUROにおけるイタリアのつまらなさは、そのファンタジスタの不在が原因なのです。
時代に逆行しようとも、観る者を魅了し、サッカーを芸術に変えてしまうファンタジスタのプレー。
今回は、かつてイタリアが生んだ4人のファンタジスタを紹介したいと思います。
ジャンニ・リベラ
出典|Wikipedia
ジャンニ・リベラは、1960年代~70年代前半に活躍し、1969年には世界年間最優秀選手賞(バロンドール)を受賞した選手です。
イタリア・セリエAの名門であるACミランで10番を背負い、リーグ優勝3回、UEFAチャンピオンズカップ(現・UEFAチャンピオンズリーグ)を2度制覇するなど、長くチームを支えました。
イタリア代表としても4度のワールドカップに出場し、1970年のメキシコ大会では準優勝!
1968年の欧州選手権(EURO1968)では優勝しています。
そんなジャンニ・リベラがファンタジスタと言われる理由は、華奢な体つきにもかかわらず、繊細で正確無比なパスによるチャンスメイクやイマジネーションに富んだプレーで観客を魅了したからなんです!
この当時、まだ「ファンタジスタ」という言葉は使われていませんでしたが、プレースタイルからファンタジスタの先駆け的存在として、この系譜を後世に引き継いでいくことになります。
なお、引退後は政治家の道を歩んでいて、イタリアの下院議員や欧州議会の委員も務めているんです。
実はイタリアサッカー界において、サッカー選手が政界へ進むことへの道筋をつけたのもジャンニ・リベラであると言われています。
なんと、ファンタジスタの系譜だけではなく、「サッカー選手から政治家へ」という系譜も後世に引き継いでいるんですね!
ロベルト・バッジョ
出典|THE ANSWER
ロベルト・バッジョは、1990年代~2000年代前半に活躍し、1993年には世界年間最優秀選手賞(バロンドール)を受賞した選手です。
セリエAのビッグ3と言われる、ユベントス、インテル、ACミランすべてでプレーした経験をもち、この他にもセリエAの4チームでプレーした経歴を持っています。
特にユベントス時代の1992-93シーズンには、UEFAカップ(現・UEFAヨーロッパリーグ)を制覇し、1994-95シーズンはリーグ優勝とコッパ・イタリア優勝の2冠に導きました。
クラブでの活躍もあり、イタリア代表にも選出され、ワールドカップに3度出場しています。
3度のワールドカップのうち、最も印象的だったのが1994年のアメリカ大会。
ロベルト・バッジョが歓喜と悲劇、天国と地獄の両方を味わうことになる大会なのです。
まず、バッジョは大会直前に右足を負傷し、状態は万全ではありませんでした。
また、イタリア代表監督のアリゴ・サッキは、ゾーンプレス戦術を取り入れており、FWにも守備を要求。
この戦術への適応にも苦しみ、グループリーグ3試合で無得点、チームも3位でかろうじて決勝トーナメントに進出できたのです。
当然のごとく、バッジョに対して批判が集中しました。
しかし、決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦で、ついにバッジョが覚醒します。
1-0で負けていたイタリアですが、試合終了直前の89分にバッジョが同点ゴール!
延長でもPKを決め、ベスト8進出に貢献しました。
準々決勝のスペイン戦で1得点、準決勝のブルガリア戦では2得点と、3試合で5得点と、これまでの批判が嘘のように、バッジョは救世主扱いを受けるのです。
そして、猛暑の中でおこなわれたブラジルとの決勝。
両者譲らず0-0のまま、ワールドカップ決勝史上初のPK戦にもつれこみます。
ブラジルリードのまま、キッカーはバッジョに。
ここでバッジョは、大きく外してしまい、イタリアは敗戦。
うなだれるバッジョの後ろ姿は今でも「救世主におこった悲劇」としてインパクトを残しています。
バッジョは、とにかくプレーが優雅。
「思いついた中で最も難しいプレーを選択する」という本人のコメントにもあるように、プレーはまさに芸術。
大きな怪我に何度も見舞われましたが、復帰後のプレーで観客を魅了してきました。
ファンタジスタという言葉は彼の出現によってサッカー界に生まれ、その後、最高級の賛辞を表す言葉へとなったのです。
しかしながら、戦術の変化とともにファンタジスタタイプは活かしにくくなり、今ではバッジョのような選手を見ることはできないと言っても過言ではありません。
残念ではありますが、ぜひバッジョのような選手が出現してくれることを願います!
デル・ピエロ
出典|サッカーダイジェストWeb
デル・ピエロは、1990年代後半~2000年代に活躍し、イタリアの全大会を通して史上2位の得点記録(346ゴール)を持っている選手です。
セリエAの名門であるユベントスで、約20年もの間、背番号10をつけて活躍しました。
8度のリーグ優勝を経験し、2007-08シーズンには得点王も獲得しています。
1995-96シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグも制覇!
翌1996年にヨーロッパ王者として臨んだトヨタカップでもアルゼンチンのリーベル・プレートに対して1-0で勝利し、デル・ピエロ自身も大会MVPに選ばれました。
このような活躍が認められ、1995年にイタリア代表に初招集。
3度のワールドカップと4度のヨーロッパ選手権に出場しています。
1998年のワールドカップ・フランス大会では、背番号10をつけてエースとして期待されましたが、ケガの影響もあり、奇しくも前回大会で10番をつけて救世主の働きをしたロベルト・バッジョに主役の座を奪われることになります。
さらに2000年代に入るとフランチェスコ・トッティが台頭し、イタリア代表の10番を譲ることになります。
それでも2002年ワールドカップ日韓大会のグループリーグ第3戦におけるメキシコ戦で値千金の活躍をします。
1-0でリードを許していた中、後半終了間際の85分に同点ゴール。
メキシコ戦に敗戦すればグループリーグ敗退の可能性もあったため、まさに起死回生でした!
2006年のワールドカップ・ドイツ大会でも、準決勝のドイツ戦でダメ押しとなるゴールを決めており、イタリアの4度目のワールドカップ制覇に貢献しています。
デル・ピエロは創造性あふれるテクニシャンで、多くの観客を魅了してきました。
そして、デル・ピエロと言えば、「デル・ピエロゾーン」とよばれるシュートレンジ。
これはゴールに向かって左斜め45度のエリアで、右足でファーポストへ巻いていくシュートが得意だったことに由来しています。
敵にしてみると、このエリアでデル・ピエロにボールを持たれるのは負けに等しいものでした。
なお、デル・ピエロは大の親日家としても有名です。
きっかけは、小学校の地理の授業で日本を取り上げたことらしいですよ。
日本にも度々訪れ、東日本大震災の慈善プロジェクトもおこないました。
デル・ピエロのように日本を愛してくれる選手が、今後も出てくれればと思います!
フランチェスコ・トッティ
出典|THE ANSWER
フランチェスコ・トッティは、2000年代~2010年代にかけて活躍し、セリエAで歴代2位のゴール数(250ゴール)の記録を持っている選手です。
ローマで生まれ育ち、24年間、ASローマ一筋!
見た目のよさも相まって、「ローマの王子様」と呼ばれるくらい、絶大な人気を誇りました。
1999-2000シーズン、新たにASローマの監督に就任したファビオ・カペッロは、3-5-2(3-4-1-2)システムのトップ下のポジションに配置され、司令塔として攻撃のタクトを揮うことになります。
翌2000-01シーズンには、トッティがチームの中心として大いに活躍をし、18シーズンぶりのリーグ優勝に貢献しました。
2006-07、2007-08シーズンにはコッパ・イタリアを連覇。
その他にも、2000年代にイタリア最優秀選手賞5回、セリアA最優秀選手賞2回、セリエA得点王1回とイタリアを代表する選手として活躍しました。
イタリア代表に初めて招集されたのは1998年。
ワールドカップには2002年日韓大会、2006年ドイツ大会と2度出場しています。
2006年ドイツ大会では優勝に貢献。
この頃には、アルゼンチンのリオネル・メッシやポルトガルのC・ロナウドといった、2000年代後半~2010年代のサッカー界を牽引することになる若手が台頭してきます。
そのような中でもトッティは豊かな才能とイマジネーションを駆使した活躍が期待されていました。
しかし、まだまだイタリア代表の中心として活躍できるのにもかかわらず、クラブでの活動に専念したいとのこで2007年にイタリア代表を自ら引退することを決断します。
2010年のワールドカップ南アフリカ大会や2014年のワールドカップブラジル大会、2016年のEURO2016ではトッティ待望論が起こるなど、人気・実力はまだまだ健在でした。
トッティは、これまでのファンタジスタと同じように、豊かな創造性と得点力でチームに違いを生み、勝利に貢献してきました。
しかしながら、他のファンタジスタと違うところは、フィジカル面が強かったということ。
ファンタジスタタイプはフィジカルに難があると言われてきましたが、トッティにはあてはまりませんでした。
これが40歳という年齢まで現役を続けられた要因なのかもしれません。
なお、トッティは2000-01シーズンに日本代表の中田英寿とチームメートでした。
しかし、トッティと中田はともにポジションがトップ下ということもあり、中田は出場機会が限定されていました。
なお、2023年にDAZNに企画で、両者が対談した番組が放送されたことは記憶に新しいところです。
まとめ
いかがだったでしょうか。
彼らファンタジスタが活躍していた時代のイタリアには強さがありました。
また、ファンタスティックで見ていて楽しさと感動を覚えるサッカーでした。
彼らのような新たなファンタジスタが出てくることが、イタリア代表の復権になると信じています。
ご覧いただきありがとうございました!
コメント